つづきはwebで

Googleこわい

フィクションとの距離

 

を、測りかねている。「あ~~面白かった! 明日からがんばろう!」というムードに、どうしてもなれない。元日に、何かの間違いで映画なんて見てしまい、主演者の出世作といわれるBBCの某ドラマに手を出してドハマリ、まだ全体の1/3しか見れてないのにこれからさきどうやって日常生活を送っていったらいいのかと途方に暮れている。当然の帰結でもあるんだけど。「小説や漫画や映画が好き!」という人がたくさんいる”場”に身をおいて思ったのは、自分がぜんぜんコンテンツに触れていない、ということだった。なぜなら生きていくのに支障が出るから。これはフィクションに触れている時間が無駄だという意味ではまったくなく、それにはまってしまうとただただつらいのがわかっているから。このつらさの本質、「そのことしか考えられなくなる」ことじゃないか、とけさ思った。

 今思い出すと「あ」となるのが、友人と映画を観にいったあとのエピソード。映画館を出てちょっとお茶でも、ということで甘いものを食べたのだけど、道すがら話したのにさっき見た映画についてまだ私は話していて、友達はこれから起こる”現実の”予定(たとえば家族の誕生日プレゼントの準備が~とかそういう類の)について話していた。もちろん会話は噛みあっているんだけどそのとき脳内を占めているものの比率が違うというか、彼女はうまく切り替えている(か意図せずにやっている)のに私はさっき見たものがかなりの割合で脳に居座っているのでそれを話題にするしかできない。フィクションの衝撃が大きいほどそれは深刻で、一年以上前、『イヴ・サンローラン』を観終わったあと映画館の外の椅子にすわってお弁当の屋台なんて見ながら小一時間かけて現実に戻り、無理矢理地下鉄に乗って大学に行った記憶がある。

 それでも毎日は動いていて、それなりにやらなければいけないことがあるなかで、「フィクションのことしか考えられない」ことで滞ったり、いろいろと弊害が起きたりする。だからその状態に耐えかねて物語消費をやめてしまう…というのが、私がとりがちなパターンな気がする。

無意識的な改善策(のつもり)だったんだろうなと思われるのが、

①絵を描いたり同志の人たちと交流して内に抱え込まないようにする→「絵を描いたり~」が目的になってしまってさらに重症化

②一気に消費するのではなくちまちま見る→これわりといい(自制心がある時期限定)

③そもそも接するコンテンツの量、接している時間を減らしてはまらないようにする

などで、③の時期が長かったので、「物語がなくても生きていける自分」に擬態していたぶん今回のつらさが大きい。

しかも頭がいっぱいになりやすい反面、冷めるときは一瞬(つぎの「それしか」がくると乗り換える現象)なので最大限に楽しむにはどうすればいいか、加減が難しい。

本当だったら昨日シーズン1の最終話(意識をエンドロールに拘束する地獄みたいな終わり方された)まで見たから記事を書いたりとかして外に出すべきなのかもしれないけれど、槙島さんの例があるのでちょっと(あのあと自分の中で”決着つけた感”があって2期見なかったしたぶんこれからも見ない)。シーズン3まであって地獄なんだけど、いかに天国な日々を過ごすか。寝食をわすれて熱中できる主人公みたいにタフな造りをしていないので、バランスをとりたいと思っている。

計画的物語消費をしたい、理想上は。

納期から逆算して考えると、

 

2/19映画版公開

2/10~19 カウントダウン期間(pixivを見たり生産したい)

pixivは全話見終わってから2次をあたりたい派なので遅いスタートが痛いです

2/4~2/9  シーズン3

1/20~2/3前後 現実をちゃんとやる

きょう~1/19  シーズン2

 

一週間以内にあと3話見ることを思って遠い目

 

下書き中のを編集してシーズンごとの感想も書きたい(これがネックで書くのに疲れて冷めることもある)なかで今までと同じ轍を踏まないようにするためにどうしたらいいか考えてるけど、そもそも2/19で世界は終わらないし納期でもないよなあという説もあり、バランスをとることは難しそうだけど善処したい、という話

感想じゃないものを書くことによってフィクションのことを考えずにすみました。心穏やかな時間を過ごせました。