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【PSY/CHO-PA/SS(新編集版)考察】槙/島はなぜ死ななければならなかったのか【妄想100%】

年末から年明けにかけて、『PSYCHO-PASS』をががーっと見た。

新編集版から見始めて最終話のショックがかなり大きく、書きたいことがたくさんあったけれど立てこんでいたため、ノートに走り書いておいたことを、ひと段落したいまあらためてメモする。

 

(きほんメモ用なので、誰か見るとか気にしてないのですが、いちおう断っておくとネタバレ以外の何ものでもないです。タイトルが地雷だから意味ないですけども。あと妄言です)

 

ライ麦畑でつかまえて』(読んでない)を彷彿とさせる広大な自然のなか、バイオテロを企てた槙島を狡噛が撃つ場面。これは死ぬかな、死ぬだろう、と思ったが、撃たれたあと、槙島の存在が物語から(すくなくとも新編集版では)消えてしまったことに言いようのないショックをうけた。ほかにも死んだひとはいたし、それなりに悲しいと思うことはできるのだけれど、槙島の場合は重く、心おだやかになれなかった。もちろんカタルシスなんて訪れなかった。もやもやする、という声も多かったらしい(CV出典) 

 

なぜこれほどショックをうけたのか、と(自分中心主義なので、受けとった印象から再構築する過程で)考えると、はじめは「悪役が好きだからではないか」と思ったりした。

単純に、ヒーローやヒロインよりも悪役が好きであること。

だから悪役に死なれてショックだった。

単純だけれど辻褄は合うようにみえる。

 

しかし、『PSYCHO-PASS』をみるにあたって忘れてはいけないのが、

「悪とは何か」というテーマが核のひとつにおかれている点だ。

シビュラシステムによって悪が数値化され、犯罪が未然に防がれる(はずの)世界。

公安局の監視官常守朱は、執行官狡噛の過去を知るうちに、潜在犯を隔離して市民の安全を保つ今の社会に、少しずつ疑問を感じるようになる。

「善/悪」は本質主義的なものでなく、社会によって定義された構築主義的なものであること。こうしたよびかけが、作品の柱のひとつを形成しているといっていい。

 

そうであるのなら、悪役は悪役である意味をもたない。というのも、「善/悪」が絶対的に分たれていない世界が舞台になっているのだから、「悪」であることに強い意味はないのだ。

したがって、「悪役だから好き! やっぱ悪役いいよね」という心性が、槙島の不在を悲しむ動機づけになっているとするのには少し無理がある。

 

ではなぜ、かれの死は悲しみをもって迎えられたのか、自分なりに考察してみる。

 

まず、槙島の立場を整理すると、

 

・犯罪係数ゼロの「免罪体質」

・⇔本性は「極悪人」(人の喉を平気で掻き切る/人が殺されても平然としている)

・シビュラシステムの異常さに気づき、その崩壊をめざす

 

免罪体質というのが、問いにひとつの答えを与えてくれるのではないか。

免罪体質者は200万人に一人の割合で存在する、本来なら犯罪係数が上昇する状況にあってもシビュラがそれを感知できない人間のことをさす。作中ではこれはシビュラの乗り越えられない課題のように説明されていた(気がする)が、私は違うと思う。なぜか。

 

藤間の例でもあったように、シビュラは免罪体質者の脳を取りこむことで、「完璧」に近づこうとする。これは完璧でないシステムが完璧をめざす苦肉の策のようにみえるけれど、もし、システムが最初に、完璧であることをあきらめていたらどうなるか。

優秀なシステムとは、システムエラーすらもプログラムに組みこんでいる存在ではないだろうか。

だとすれば、免罪体質者はシステムが感知「できない」のではなく、感知「しない」人間なのだ。事故ではなく、故意に。

 

故意にシステムに穴を残しておく。穴を埋めてもらうことで、システムの完璧さは維持される。

つまり、ごく少数の人びとをアトランダムに抽出し、

それらの人びとについては、どれだけ犯罪行為をしても、危険な思想をもっていても、犯罪係数が上がらないようにシステムに教え込む。

そのうちのまたごく少数が、内面とシビュラの判定の矛盾に気づき、自分が特異な体質であると知る。その割合が、200万人に一人、すなわち「免罪体質者」の割合となる。

もちろん作品ではこんなことは言われていないが、こう考えるといろいろと辻褄が合う気がする。

 

誰の台詞だったか覚えてないけれど、「自分が免罪体質だと自覚したときが槙島のターニングポイント」というものがあったと思う。

自分がシステムによって偶然に(偶然に、というのが重要)選ばれて、その体質をどんなものなのか、知ってしまったことから、彼の悲劇は始まっていたのではないだろうか。

 

私が思うに、槙島は、システムがそれ自身の進化のために生みだした「悪人」なのだ。

おそらく彼は、それを自覚して、システムを壊すほうに「すすんで乗せられた」のではないか。

 

革命家をみていて、あぁ切ないな、と思ってしまうのは、

システムを否定することはじつは何よりも強いシステムの肯定の態度である

と考えてしまうから。

価値に異を唱えるということじたい、その価値の絶対性を無言で証明してしまっていることになる。

 

だから、槙島は、シビュラを忌み嫌っているように思えるけれど、

まさにそれを壊そうとしている点において、ほんとうは誰よりも忠実なシビュラの下僕なのだ。

 

「愛情の反対は憎悪ではなく無関心」――新編集版の冒頭で、彼が人間にたいして言っていたことは、そのまま彼にもあてはまる。

システムを憎悪し、それに抗うということは、無関心な態度をとるよりもずっと、システムが気がかりで、それから逃れられないということを意味している。

 

槙島はこうしたことに無自覚だったわけではない。

だから、狡噛に自分を追い詰めさせるようしむけた。死のシナリオを、自分で作った。

脱構築主義者みたいに、二項対立そのものをずらしていく作業が好きだ」と槙島は語るけれど、

まさにシステムの肯定か否定かという二項対立は、結局システムを前提にしている点で、たいした差異はない。

では、二項対立をずらすとは何か。

 

それは自分が死ぬことだ、と思う。

 

システムによって、システムの否定の役を負わされる、偶然的な一個人。

そこからのがれるには、システムの循環から降りる、すなわち死ぬしかない。

槙島が最後に救いを求めたのは、自分が代替可能な存在なのではなく、誰かにとって唯一の存在であるということではないだろうか。

システムの犠牲者として殉死すること。

自分を唯一と思う誰かに殺されること。

どちらも死という面では同じだけれど、後者のほうが、わずかに希望がある。

 

狡噛に後ろから撃たれる直前の、安らかな、解放されたような表情は、

自分を唯一とする存在の手によって、ようやくシステムから自由になれた、あきらめと幸福感の入り混じったそれではないだろうか。

 

槙島はシステムに殉じて死ぬしかなかった。そのことはとても切ない。けれど最後の最後に、彼が「人間らしい死に方」をできたのなら、それはほんの少しだけ、救いになるのではないか。

 

とまあつらつら考えましたー楽しかった!!

たんなる槙島好きです。はい。

劇場版も二期も見たい。

 

2000字のレポートが一週間後に控えているのに3000字の考察をブログに書く自分ワロタwwww