つづきはwebで

Googleこわい

 子供の頃、身体の中に、坂を飼っていた。

 

 坂は凸凹していて、自分ではないものが、目から、耳から、入ってくると、そのいくつかは坂を転がる途中で凸凹に引っかかり、ちゃんと止まった。引っかかったものは一定の期間、そこにとどまり、坂の形を変え、飼い主の世界に対する姿勢を変えた。そうして、新しい凸凹の一部になった。坂の形は、凸凹は、年月が経つ度に変わっていった。飼い主が変わることを拒んだとしても、ゆっくりと、だれにもわからないくらいゆっくりと。

 

 飼い主が歳をとると、坂はだんだん、滑らかになっていった。凸凹に引っかからず、目から、耳から、入ってきたものが、そのまま、身体の中を抜けていくようになった。そうすると、坂を転がりきったときの勢いも、凸凹に引っかからない分、削がれるようになっていった。ぬるり、と限りなく水平に近い坂の上を滑っていく、揮発性の何か。坂だと思っていたものが、傾斜を失っていった。今ではもう、ほとんど、何も。

 

 引き換えであったのだ、という声も聞こえる。引っかかって、そのことで頭が一杯になって、満足に寝たり起きたりできないのなら、凸凹なんてないほうがいい。そう望んだのは飼い主なのだと、納得することは簡単だった。けれど私の坂の凸凹に、欠落と過剰に、何の因果か、引っかかったものたちを、私は愛していた。愛していて、手を伸ばし続けていたかった。かれらがみな同じ顔かたちをしていて、私がかれらと会うたびにそれを忘れるのだとしても。手を伸ばすことに何の意味があるのか分からなくても。生きていることに何の意味があるのか分からなくても。

 

  ほんとうは、坂を転がり続けていたのは私だったのかもしれない。そうだ、私は自分が転がるための坂をずっと、身体の中に飼っていた、それだけの話だった。坂を転がりきった先に何があるのか、この目で確かめられる日を待っていた。上がりきった先ではなく、転がりきった先に。水平の片側に重心を預けて、勢いをつけなければ。まだ見たことのない暗闇が、どんな色をしているか見えるように。

 

ライヘンバッハショックの対症療法

数日前、S2E3(『ライヘンバッハ・ヒーロー』)を見てこころのバランスを崩しかけ、つくづく映像耐性がないんだなぁと実感しました。

 終わったあと「こんなにすばらしい映像をいままで見たことがない」と本気で思うくらいには、強い作品でした。

特に”書き置き”の電話の場面、ふたりとも名演すぎて、どんな言葉を使っても言い尽くせない美しさでした。その日の夜はお風呂で泣きました。

今はいくぶん落ち着いたので、距離をとれるし、あるていど言語化することもできるけれど、ひたすら放心状態でした。

泣きながら思ったことのうち、ひとつは、月並みな感想ですが、この作品に出会えてほんとうによかった、ということです。この作品を見るためにこそ生まれてきたんだ、人生の意味がわかった、、と変なスイッチが入りかけました(そのときはいたって大真面目でした)。

間違えてきたことばかりだ、というのは、ずっと消えなかった後悔だけど、この作品に出会えたなら、すべての間違いは正解だった、と思えるくらいの。少なくとも私にとっては。

もうひとつは、自分に対しての申し訳ない気持ちでした。あのとき諦めてごめん、叶えてあげられなくてごめん、と。

(というのは、やっぱり物語が好きだから、それにかかわる何かをしたかった、という後悔でした。

(広義の)作品が好きだと自分では思っていて、それを生み出す側に行きたくて、でも何もできないなと諦めて、諦めきれずに作品にかかわって生きていくことのできる場所に身をおこうとしたけれど、そういう活動もやってみたけれど、違和感がずっと追いかけてきて離れませんでした。

そういう人生にしよう、と決めて、それで進路も選んでいたから、気づかないふりをしていたけれど、認めてしまえばあっさりと腑に落ちるのは、「作品がなくてもぜんぜん生きていける」ということでした。作品にかかわる人になるために、自分なりにその周辺でわずかな経験を積んだり、内情を知ろうとしたりしてみたけれど、それをやっているうちに、たぶん素質や性格、そしてなによりも愛がなければやっていけなくて、あってもやっていける人は一握りで、そして「なる」ことばかりをめざしていた自分の中には、もう愛はないのだろうなあ、とあるとき悟りました。それでも、じゃあどうすればいいのか、というのは、皆目見当がつかず、「あなたはこちら側には来られない」とひたすら、何十人もの「生み出す側」の人たちから、言われるのを待っていました。結果がわかっていても、試してみないことには、他の選択肢に目を向けることができませんでした。結果をよくしようと、努力してみたこともあるけれど、「あちら側」に行きたい、と思うのは、自分の夢でしかなくて、それが仮に実現できたとしても、世界にとっての最適解ではないよなあ、という思いがずっとありました。

諦める前も後も、もっと愛を保っていることができたらな、と後悔することがあり、その後悔はS2E3を見た夜に最高潮に達したようで、悲しくなったけれど、何かある特定の「この作品」が好き、というのと、「(広義の)作品が好き」、というのは、違うんだろうなあと、それをずっとごっちゃにしてしまっていたんだろうなと、今では思います。私はずっと前者で生きてきて、不連続に乗り換え乗り換え生きてきて、そのときたまたま、すごい、と思ったものを糧にして、これからも生きていくんだろうな、と。もう小説や漫画や映画や、その他もろもろを本気で好きになることはできないだろうと思っていたけれど、S2E3に出会って、そんなわけなかったと思ったし、あらゆるもやもやも全部のみこんで浄化する圧倒的な力があの電話のシーンにはあると思うし、私はそれだけで、満足です。神話の時代でもシェイクスピアの時代でもウルトラマンの時代でもなく、今この時代を生きていて、自分にとっての「この作品」に出会えたというのはほんとうに奇跡だなと思います。感想を言語化して外に出さないと次の話が見れなくて、Twitterを数年ぶりに使いながら、創作もしたい欲があり、絵は描いてみて絶望したけれど、こんなにはまることって今まであんまりなかったなあと。「時間がある」というのが要因としていちばん大きい気がします。こんなに好きになっていいのか、と思うこともあったけれど、次にまたいつか「この作品こそ」というものに出会えるときのために、後ろめたい気持ちは脇に置いておこうと思います。)

 

これからS3を見ないといけないので、Twitter(そのほとんどを電話のシーンに割いた)に書き落としたところを限りなく粗くメモ

 

・最初のほうにちらっと自殺した男の人の事件出てきてるけどこれは伏線??

ニュースチャンネルが入れ替わりながら中継していく演出すごい

・群れる報道陣をかきわけて進みながらちゃんと矢面に立ってあげてるジョンの優しさ

・シャーロック、指し示したほうと逆側(いつも自分が座っている位置)にモリアーティが座るから「その椅子は僕のだ」って言いたげ→これも「君は僕だ」の伏線? 

・「あなたも悲しそう 彼が見てないときは」 S1で殺されそうになっても「大丈夫だ」としか言わないからこの人死ぬ時も一人で死にそうだ…って気が気じゃなかったんだけど予感が当たってしまった

・S2の4つめのキーワードに”マスコミ”を入れたい E1では英国王室のスキャンダル、E2では政府陰謀説、E3ではマスコミの寵児(の転落)

・監視カメラを探してぴょこぴょこする身軽なベネさんに引っ越しを手伝ってほしい

・お墓の前の泣きマーティンが名演です まだ見てないけど再会おめでとう!!!

・関係ないけど)他の方の感想が見たいな~と思ってベネレットで検索かけると自分の記事が2ページ目に表示されてますますGoogleこわい

・関係ないけど2)更新するとしてもたぶん感想記事だけになるかもしれないです こんな具合で

・関係ないけど3)2月中に絵を描く 決意

 

SH予告編捜索

 

執拗にアクセスし続けてたら日本語版予告きた

・”ワトソン” ”ホームズ” って呼び合ってる待って

・ストーリーのところ、「冥界からやってきた敵を相手に」って書いてあるけど大丈夫か

英語版でしか上がってない予告がより冥界感ある


Sherlock: The Abominable Bride Trailer #3

・拳銃二刀流の花嫁にホームズ&ワトソンってもはや屍者の帝国しか出てこないんだけどたぶん私の勉強不足だと信じたい

・ジョンが19世紀ワトソンなのかコスプレ好きのおじさんなのかわからない

・マフラーを巻く代わりに鹿撃ち帽を被るんですね!!!

・マークさんとしてのマイクロフト兄さんを初めて見たんですが違和感しかない

英語版予告とほとんど同じだけど唯一違うフォントは英語版予告のほうがかっこいい

・タイトル名+trailerで検索して遊んでたら出てきたやつ 日本語版未公開シーン多数


Sherlock: The Abominable Bride - Inception Style Trailer

 ヴィクトリア朝でも死体に鞭打つシャーロックは健在のようで何より

 

人生間違いだらけだったけどあのとき間違ってなければこの作品に出会っていた自分はいなかったかもしれないと考えて自分の幸福さに感激して号泣するくらいには好き

 

フィクションとの距離

 

を、測りかねている。「あ~~面白かった! 明日からがんばろう!」というムードに、どうしてもなれない。元日に、何かの間違いで映画なんて見てしまい、主演者の出世作といわれるBBCの某ドラマに手を出してドハマリ、まだ全体の1/3しか見れてないのにこれからさきどうやって日常生活を送っていったらいいのかと途方に暮れている。当然の帰結でもあるんだけど。「小説や漫画や映画が好き!」という人がたくさんいる”場”に身をおいて思ったのは、自分がぜんぜんコンテンツに触れていない、ということだった。なぜなら生きていくのに支障が出るから。これはフィクションに触れている時間が無駄だという意味ではまったくなく、それにはまってしまうとただただつらいのがわかっているから。このつらさの本質、「そのことしか考えられなくなる」ことじゃないか、とけさ思った。

 今思い出すと「あ」となるのが、友人と映画を観にいったあとのエピソード。映画館を出てちょっとお茶でも、ということで甘いものを食べたのだけど、道すがら話したのにさっき見た映画についてまだ私は話していて、友達はこれから起こる”現実の”予定(たとえば家族の誕生日プレゼントの準備が~とかそういう類の)について話していた。もちろん会話は噛みあっているんだけどそのとき脳内を占めているものの比率が違うというか、彼女はうまく切り替えている(か意図せずにやっている)のに私はさっき見たものがかなりの割合で脳に居座っているのでそれを話題にするしかできない。フィクションの衝撃が大きいほどそれは深刻で、一年以上前、『イヴ・サンローラン』を観終わったあと映画館の外の椅子にすわってお弁当の屋台なんて見ながら小一時間かけて現実に戻り、無理矢理地下鉄に乗って大学に行った記憶がある。

 それでも毎日は動いていて、それなりにやらなければいけないことがあるなかで、「フィクションのことしか考えられない」ことで滞ったり、いろいろと弊害が起きたりする。だからその状態に耐えかねて物語消費をやめてしまう…というのが、私がとりがちなパターンな気がする。

無意識的な改善策(のつもり)だったんだろうなと思われるのが、

①絵を描いたり同志の人たちと交流して内に抱え込まないようにする→「絵を描いたり~」が目的になってしまってさらに重症化

②一気に消費するのではなくちまちま見る→これわりといい(自制心がある時期限定)

③そもそも接するコンテンツの量、接している時間を減らしてはまらないようにする

などで、③の時期が長かったので、「物語がなくても生きていける自分」に擬態していたぶん今回のつらさが大きい。

しかも頭がいっぱいになりやすい反面、冷めるときは一瞬(つぎの「それしか」がくると乗り換える現象)なので最大限に楽しむにはどうすればいいか、加減が難しい。

本当だったら昨日シーズン1の最終話(意識をエンドロールに拘束する地獄みたいな終わり方された)まで見たから記事を書いたりとかして外に出すべきなのかもしれないけれど、槙島さんの例があるのでちょっと(あのあと自分の中で”決着つけた感”があって2期見なかったしたぶんこれからも見ない)。シーズン3まであって地獄なんだけど、いかに天国な日々を過ごすか。寝食をわすれて熱中できる主人公みたいにタフな造りをしていないので、バランスをとりたいと思っている。

計画的物語消費をしたい、理想上は。

納期から逆算して考えると、

 

2/19映画版公開

2/10~19 カウントダウン期間(pixivを見たり生産したい)

pixivは全話見終わってから2次をあたりたい派なので遅いスタートが痛いです

2/4~2/9  シーズン3

1/20~2/3前後 現実をちゃんとやる

きょう~1/19  シーズン2

 

一週間以内にあと3話見ることを思って遠い目

 

下書き中のを編集してシーズンごとの感想も書きたい(これがネックで書くのに疲れて冷めることもある)なかで今までと同じ轍を踏まないようにするためにどうしたらいいか考えてるけど、そもそも2/19で世界は終わらないし納期でもないよなあという説もあり、バランスをとることは難しそうだけど善処したい、という話

感想じゃないものを書くことによってフィクションのことを考えずにすみました。心穏やかな時間を過ごせました。

 

スキャンダルとその周辺


スキャンダルについて、ここ数日で考えたことを書きます。

感情的かつ、倫理的にアウトな内容です。


第一に、一般人だったらこれほど多くの人を敵に回すことはないのに、芸能人は気の毒だと思う。

そういうの織り込み済みなのかもしれないけれど、それでも。

批判してる人たち、死ねと言ってる人たち、あなたたちは、一度も人を欺いたことがないと自信を持って言えますか。嘘をつかずに生きてきましたか。私は、たくさんついて生きてきました。


第二に、今回の件で、今まであの曲好きだったのに嫌いになった、という人が多いけれど、

曲とそれを生み出す人を混同している気がしてならない。

書かれたもの、うたわれたものと、現実は、違うんですよ。

というか、これくらいで嫌いになるんだったら、

はじめから好きではなかったということだ。

手のひらを返したように叩きに回るの、みっともないな、と思います。

自分の好きなものを守ることくらい、人を傷つけずにやれるはずだ。


第三に、

これは私の歪んだ結婚観、恋愛観にほかならないのだけれど、

結婚したら他の人と恋愛しちゃいけないって、なんでなのかよくわからない。

もちろん、配偶者が嫌がるならそれ相応の代償を払わないといけないのは分かるのだけれど。

世の中の再婚者の人は、みんながみんな離婚あるいは、配偶者となんらかの事情で離れてから、新しいパートナーを見つけるんでしょうか。結婚中に、なんか違うな、と思ってしまったら、即刻別れろということなんでしょうか。

日本という文化圏のなかで起こる問題で、世界にはいろんな結婚制度の国がある。日本では、原則やってはいけないのだけれど、それもあくまで社会的なしがらみがあるからだ。それを守れなかったからといって、あんなに糾弾すること、ないのに。


まとまりがないですが、終わります。

今までのような形では、いられないかもしれないけれど、また音楽を届けてくれる日を、心から待っています。


生理前にありがちなこと

生理前の不安定さがMAXで、音楽を聴いていたらやっと落ち着いた。

毎回訪れる症状について、他の人より特別に重いとも思わないけど、軽いとも思わない。

自覚しているものとしては

・イライラが止まらない

・甘いものが食べたくなる

・おなかをこわす

・大胆になる、遠慮がなくなる

・未来に希望がなく死にたくなる

・だれかに構ってほしくなる←イマココ

 

などで、普段とは違うスイッチが入った感じになる。

先月こそ病院に行こうと思ったのにまだ行っていない。

今月は軽いかと期待していたけどそうでもなく

今日は買いたいものが決められず同じ売り場で延々と2時間以上悩んでしまう。

 

ただ悪いことばかりでもないのが厄介で、

遠慮がなくなる分本音を言えたりしてすっきりすることもある。

 

生理前の自分がやってしまったことの後始末を、

正気に戻ってからやらなければいけないのがつらかった。

最近は3週間がイライラ期で、残り1週間が平穏という感じ。逆転している。

性格が変わり他罰的になった。

前は自罰的だった。

正気の時でそうなのだから、今は余計に。

今とても恨んでいる人がいる、その人に直接、言い渡そうか迷っている。

好きですと言うのはいいことで嫌いですと言うのはよくないことなのか?

私は誰かから面と向かって嫌いだと言われたら、「話を聞こう」となるけどなあ

 

今だけかもしれないけど、嫌いなものがはっきりしてきたのでついでに書いておくと

・携帯電話

 なんでみんなすぐ出れるの、暇なの?

・交流型SNS

 不在の人の行動をあれこれ推測するのも馬鹿らしいしいいねの数で喜ぶ自分も嫌だ。

・頑張ること

 向上心って多かれ少なかれ誰かを見下すことでしか維持できないと思う

 そんな努力ならいらない

 

ただの嫌な奴ですね

でもちやほやされたり好かれたりすることにどれほどの意味があるんだろうとは

ここ数日思っている

強がりですかね

 

性格が変わってしまったこと、誰かに言ってもわかってもらえないんだろう

あるいはプラスに捉えられるか

なんで心配してくれないんだ…って思ってるうちは全然平気ってことなんですかね